2023年とandymori とオーストラリア その 3

今回からは andymori 要素はほぼなく、オーストラリア・ワーキングホリデーの体験日記的なことが内容の中心になると思う。

 

 

まず、オーストラリアでは、率直に言ってカルチャーショックを受けた。

「2023年とandymori とオーストラリア その2」の記事では、好きなことを仕事にするしか、人生を "楽しく " 生きる道がないような気がした、ということを書いた。そこでは、私にとって「好きなこと」とは「国際交流・異文化接触」だと書いた。

 

しかし、これは最初の 1週間で瓦解した。なぜかというと、日本とオーストラリアで文化が違うことなど、「面白い」どころか、「当たり前」のことだという感覚になったのだ。

 

「好き」が「当たり前」に変化した

だが、これは悲観することではないと、この前の記事を書いていて思った。そこで紹介したスティーブ・ジョブズ のスピーチには続きがある。

 

「好きなことというのは、恋人との関係と同じで長く向き合うほど深くなるものなのです。ですから立ち止まらず好きなことを探し続けてください」

 

つまり、私は「異文化接触を楽しむことが好きなのだ」と信じなさい、とジョブズは言っているのではないだろうか。好きなことを、恋人との関係と同じように向き合う、という意味は、付き合ううちに、恋人の色々な内面と向き合うことになるように、好きなこと、というのも、ただ「好き」だけでは、深い関係とは言えないのだ。文字通り恋人と同じで、私の「好きなこと」である異文化は「当たり前」のことなのだ。「好き」が「当たり前」に変わった。好きな人と一緒にいるのが、何もしないでいると「当たり前」になることと似ている。

 

異国人への恐怖感が拭えない

だから心を閉ざしてしまい、相手にそれが伝わる。相手も心を開いてくれない。という悪循環。

 

失業者が結構いそう

タウンホール (シドニー市役所)周辺で夕飯を取ろうとしていた日があった。近くにマクドナルドがあり、入り口に失業者っぽい人が座り込んでいた。不思議なことに、私はマクドナルド店内に入れなかった。心理的な意味で。その失業者の人を避けたかったからではない。あたかも彼が「外国資本の筆頭であるマクドナルドにお金を落とす余裕があるなら、ハンバーガーの代わりにスーパーの食パンを食べて、余ったお金を貧しい私に分けてくれ」とでも言っているような感覚。資本主義への小さな反抗をその失業者はしていたのかもしれない。

セントラル駅の出口の遊歩道では「Where are you going?」と小声で道を行き交う人ごとに語りかけているおじさんもいた。

 

麻薬的なもの

ツァラトゥストラ (中公文庫、 ニーチェ手塚富雄訳)の訳者対談で「ニーチェが青年時代の麻薬的な役割を果たしていたと三島由紀夫が言っていたが、ツァラトゥストラが私の場合は麻薬的な役割を果たすのかもしれない。言ってみれば私が生まれてから四半世紀の間、私の人生はルサンチマンだったわけだし、白人たちは飽くなき探究心 (欲ともいう)でもって働いて徳を積んだり、遊んだり、毎週末には懺悔して神から恩赦を賜るようなキリスト教圏に支配されたオーストラリアなどニーチェキリスト教批判の格好の的だろう。真夏にクリスマスを祝うヨーロッパ系移民を見てアボリジニは何をおもっているんだろう。そんなニーチェは、「どこにも行けない」日本から「どこへだって行ける」オーストラリアに来た私にとって、麻薬的な意味は必ずある。

 

つまり麻薬的なもの(キリスト教であれタバコであれセックスであれ結婚・出産・子育てであれ)がオーストラリアやアメリカなど比較的に歴史が浅い国家においては、厳しい現実から一時的に・それを持続させることで半永久的に、死ぬまで必要なのだろう。麻薬漬けの国家だ。まあ麻薬的なものが悉く抑圧されたり乏しかったりすることで自殺大国との呼び声高い日本よりはマシかもしれないが。

 

遠くへ来た

もう日本の家族・大学までの知人(私に友人はかつて一人もいないのだ。心から通じ合える。いたなら、ここまで私は語学習得に苦しんでいない)に会いたいとはあまり思わない。そういう意味で「遠くへ行きたい」は正しい感覚だったかもしれない。何もかも振り切って来た。andymori の「ハッピーエンド」の歌詞を借りれば「絡まりを全て解いて」きた。

それが証拠にかわからないが、信用できる人とそうでない者を識別できる力が今オーストラリアではあるような気がする。

「吐き気のするあの顔を大事な人の中に見て」という経験をしたが、幸いにも幸運と自助努力によって、そこから 3年経った今、素晴らしい人たちとオーストラリアに来て出会えた。本当に人生は何が待っているか予想もつかない。

 

2週間で感じた「日本でもここでもない」という感覚

やはり欧米的なものに自分が馴染めないような直感がある。まだ2週間だから馴染めていない感覚ではなく、自分の周りに文化の透明な壁がある。それが解けない気がする。自分が心理的に壁を作っているからでもない。およそ 30年間住んでいた日本という独特な文化を自分が死ぬまで背負い続けるような感覚。どこまで行っても自分の影がついてくるように。その日本の影をできるだけ薄めようとしている感覚。影に色が付くならば、黄色や白色が混ざったような色になるのかもしれない。

 

オーストラリアに来て1週間はホームシックになったが、予想通り、私が恋しくなったのは日本語という言語と、andymori の音楽と、日本食だけだ。両親や兄弟、昔の知人が恋しくなったことは一度もなかった。もちろん、実家という安楽な生活=「どこにも行けない」生活は叶うなら戻りたいと思ったことはある。だが両親という存在自体を恋しくは思わなかった。あくまで日本での生活それ自体を求めただけだった。

 

なので 日本シックになった時は、ツァラトゥストラの日本語訳文庫、自由からの逃走 (エーリヒ・フロム)の日本語訳本を読んだり、andymori を聞いたりした。とにかく日本語に触れたくなったから。

 

 

2週間経ち、自分はオーストラリアでもなく、日本でもなく、別の場所に自分の存在がしっくり来る文化があるような気がしている。直感的にだけど。マレーシアやタイ、インドやトルコ (今はあまり行きたくないが)とかにも行ってみたい。オーストラリアは多分半年くらいで飽きるような気がする。

 

オーストラリアに何年まで自分がいるのか想像がつかない

オーストラリアのワーキングホリデービザは、ファームで働くなど条件を満たせば 最長 2年滞在できる。お金がないので働かないといけないが。だが、2年もオーストラリアにいて「ここじゃない」感を感じて日本に帰国するのは勿体無い気もしてきた。英語の習得を優先させるなら、英語圏のオーストラリアに1年以上いた方が良さそうだが。

 

英語の習得を目指しているのは、一つは日本語教師という目標のため。海外で日本語教師というのは困難な道だが、海外で生活をする一つの手ではある。二つ目は、将来的に IT の仕事も英語が話せて IT・プログラミングスキルがあれば、リモートワークで海外ノマド生活も夢ではない。プログラミングのスキル習得については、まだ課題があるが。韓国人の友人が勧めてくれたように、Android アプリ開発Java で勉強しようかと思っている。

 

なので、年齢的に最後のワーキングホリデー 2年間を全力で日本語教師や IT の仕事を海外でやることに力を注ぐなら、割り切ってオーストラリアの文化で暮らすしかない。2年間 やれることをやり切って、それでも目標に届かなければ、英語を生かして就労ビザを取れるかもしれない。その時はまたオーストラリアにお世話になるのかもしれないが。可能なら英語圏の国 (イギリス、カナダ、ニュージーランドなど)にも行けるかもしれないし。日本で語学を教えながら 日本での IT の道を模索してもいい。