高校生の時にBUMP OF CHICKENというバンドを熱心に聞いていた。
胸を張って誇れるモンが 自分にどんだけあるのかって?
名前と誕生日と キュートな指紋さえあれば
充分だろう
これはグロリアスレボリューションという曲の冒頭の歌詞だ。グロリアスレボリューションは名誉革命いう日本語に訳される。自分自身の存在の復権のことを言っているのだと長年聞いた感じでは思っている。
名前と誕生日と キュートな指紋さえあれば
充分だろう
そいつを さぁ
精一杯の大口で耽美に語ればいい
大口で耽美に「名前を語る」とはどういう意味なのか、高校生の自分には分からなかった。「名前を」の次に来る動詞の中に「語る」はちょっと頭の辞書になかったのだ。学校の定期テストで一番上に「名前を書く」。眼科の待合いで「名前を呼ばれる」。せいぜいそのくらいだった。
最近になってこの『「名前を語る」とはどういう意味なのか?』という問いに対して、ハクと千尋が名前を取り戻した理由という記事によって答えを見つけた。
このBUMP OF CHICKENのグロリアスレボリューションや千と千尋の神隠しに見られる主題を「名前を語る系」と呼ぶことにする。「名前を語る系」に似た主題を歌っている曲がある。BUMP OF CHICKENの「名前を語る系」に対して「存在を叫ぶ系」である。RADWIMPSの「叫べ」という曲だ。
あの日叫んだ僕の声だって 忘れてなんかいやしないよ
叫んだのは、自分の存在ではないかと思う。存在自体には「名前」はない。ある存在を指して、「僕」とか「RADWIMPSの野田洋次郎」とか名前を付けているにすぎない。
「叫べ」というこの確かな心を
逃がさぬように 忘れぬように
RADWIMPSの「叫べ」という曲が、自分という「存在」について歌っていることがよく分かる歌詞を見てみよう。
何万年と受け継がれてきて 僕が生まれてきたように
必ず僕も未来の自分に 今までの僕 繋いでいくよ
「何万年と受け継がれてきて 僕が生まれてきた」というのは、親、そのまた親、と続いてきた先祖のことではないと思う。何万年以上もの「僕」という存在の永続性を歌っているのではないか。「未来の自分に 今までの僕 繋いでいくよ」と続くからである。仏教においてもブッダはあらゆる存在の永続性を主張している。何万年も未来の自分に「僕」という存在を受け継いでいくのだ。「子孫」に受け継ぐのではない。
RADWIMPSの「叫べ」という曲では、自分という存在の唯一性を確信しているというメッセージを感じる。自分という本質的に孤独な存在を、自分で抱擁してあげることでもあると思う。