米津玄師が歌う人生観には普遍性がある

2020年の2月、米津玄師のライブに行った。

ライブの進行は、スタートから米津玄師が何曲か立て続けに歌った後、最初のトークが始まるという一般的なものだった。バンドのメンバーとのやりとりの中で、観客と次にライブで会う時までの約束をしようという流れになった。その約束の言葉が米津玄師らしかった。彼はこう言った。

「みんな、生きていてね。」


そして最近、米津玄師のアンビリーバーズを聴いた。


そうかそれが光ならば そんなもの要らないよ僕は
こうしてちゃんと生きているから 心配いらないよ

すべて受け止めていっしょに笑おうか


米津玄師は生き続けてきた人だと思う。悲しみや絶望すらをも愛し、地を這う様に生きてきた人。だからこそ、ライブでの「みんな、生きていて。」という言葉だったんではないか。

私は、自分の宿命の先に何が待っているのか怖れて、今を猜疑の目で見つめながら生きている感覚だ。辛うじて過去と距離を置きつつ、未来へと陸続きの恐怖に押しつぶされずにいる。生かされているとも言えるかもしれない。非連続と連続のただ中にある時間と格闘して生きている私の脇を、飄々とアンビリーバーズを歌う米津玄師は素通りしていく。彼は過去の記憶も、未来の宿命も怖れていないのか。


どんな場所へ辿り着こうと ゲラゲラ笑ってやろうぜ


米津玄師は、悲しみ、絶望、そして恐怖を超越していると思う。彼の曲を聴いていると、それらを超えてきたから米津玄師は今生きているという気がする。

この社会で夢や目標をもち、これまで結果を出せた人は一握りだろう。生きる目標も分からず、まともな生活さえ出来ないでいる人の方が多いかもしれない。ただひたすら生きて、どうにか命を繋いでいる。


それでも僕ら 空を飛ぼうと 夢を見て朝を繋いでいく


当たり前のように世界が朝を迎える中で、途中でドロップアウトする人もいる。日本人が先進国でワーストの自殺率を誇る理由は、ただ生きている人々を許容しない風土が日本人に根付いているからではないか。目標をもて、夢を大きく掲げろ、......そんな言葉がいつからか世の中のスタンダードだと日本人は思い込まされているんではないか。妄想が作った人生の標準ルートから外れ、ただひたすらに生きることをする。それを許容されていないと感じると人は死という選択をするんではないか。日本人がいわば忌避視している、ただ「生きる」ということが、米津玄師のピースサインという曲でも歌われているように私は感じる。


残酷な運命が定まっているとして
それがいつの日か僕の前に現れるとして
ただ一瞬この一瞬息ができるなら
どうでもいいと思えたその心を


米津玄師自身、YouTube再生回数が億を数えるほどの有名アーティストになるとは始めは思いもしなかっただろう。彼はむしろ「生きる」ことにしか焦点を当てていなかった過去があるのではないか。自死や犯罪などの残酷な運命さえ受け入れる覚悟で。
例えば多くの人々は、まさか自分が交通事故を起こして人を死なせたり、事件の被害者や加害者になるなど思いもせず生きているんではないか。
私はそういう運命は誰にでも起こりうると思っているほうだ。車の運転なんて人を轢かないかといつも心配でやっている。だから安全運転に気を付けているつもりだ。自分が人を轢くなんてありえない、と思っているから危険な運転をしても平気でいるんではないか。そして安全運転にいくら注意していようと、事故を起こしてしまうのはその人の宿命だったのではないのか。その宿命だけは誰にもどうすることもできないのではないか。
つい最近、有名人の轢き逃げ事件があったが、残酷な宿命もありのまま受け入れる心の習慣が出来ていなければ、人を轢いたという事実に誰でも目を背けて逃げてしまうんではないか。