麻薬的なものと資本家と繁栄 その2

大衆が個を忘れ全体に同化していく過程をワーキングホリデーに見る

 

エーリッヒ・フロムの著作「自由からの逃走」において

近代の中産階級が、資本家などの権威に身を任せてしまい、自我を失う心理の社会的傾向を示していた。

 

自由であること、つまり中産階級においては、

経済や労働から解放された人間本来としての自由は、

孤独だということでもある。帰属意識がどこにもないと人は不安に駆られるものだから。

私は、4年以上も前に仕事を辞めた。その時に感じた恐怖感・不安・孤独はフロムのいう「自由」から涌き出てくる衝動なのだと思う。

 

今はワーキングホリデーにオーストラリアに渡っているが、語学学校に行っていないしアルバイトをしていない。その意味でオーストラリアでも自由でいることから生まれるそこはかとない孤独感の中に身を浸している状況だ。

 

しかも、日本という国の後ろ盾も半ば失っているようなものだ。日本にいる頼れる親もシニアになっていく。何かがあって親が死ねば、仕送りをしてもらうこともできない。お金が尽きれば日本にだって帰れなくなる。

そういう意味でも、母国への帰属意識も希薄な今、私にとってそういった孤独などの耐え難い苦痛から逃れるために、権威に絶え間ない憧憬を感じているのかも知れない。

 

いっそ、強者の一部になってしまいたい。つまりこんな苦しい個ならば、無力感に耐えるしかないのなら、その能力を、労働力を売る形でいいから社会の歯車になってしまった方が楽なのだ、という意志。

フロムの言葉で言えば、私はサド・マゾヒズム的性格なのかも知れない。

 

ギャンブル・高価なもの・金・酒 に何故だか心を惹かれるのは、自分の無力感を深くし、サド・マゾヒズム的性格を助長するものなのかも知れない。

 

筆者がこのブログ等で「麻薬的なもの」と称するもの、

つまり一般的には娯楽的なもの、性的なものなどからくる快楽に溺れそうになる人はそういう「麻薬的なもの」に溺れれば溺れるほど自分の無力感は増していき、より強く権威的なものに自己を同化させたくなる傾向があると、フロムも言っている。

 

権威主義的性格

サド・マゾヒズム的性格の他に、

強者が強者である内はそれに服従している限り、自己の精神を安定させられるが、

強者が弱体化した時には自分を守るものがいなくなるために、

強者に対して攻撃的になるタイプの人を、フロムは権威主義的性格と表現した。

 

私はこれにも当てはまるような気がしている。

日本にいて、仕事をしていない時に自分の能力を発揮する場もなく街をふらふらしていると、

社会や周囲の人々に対して無性にイライラしたり攻撃的になった体験がある。

 

例を挙げれば、某ショッピングモールで私は買い物に来たわけではなく先を急いでいるのに、

消費者に購買意欲を湧かせるために、わざと店内の通路を歪曲していろんな店を見せる様式に対してイライラして、最短経路上にあるスタンドやプラントに肩が触れても、あわやそれを吹っ飛ばずくらいには全速力で前進したことがある。

 

このような資本家の商業的な思惑にむかつくことも何度も私にはある。

GoogleChrome の操作性の悪さには、時間を奪われることに悪態をついたりする。

Google の社長 (CEO だけど)は人の時間を搾取してお金を儲けているのだ、と憤慨したりする。 YouTube の広告などもっとだ。人々から創作や能動的に使える時間を奪っている。

そういうことに無性に腹が立つ自分がいた。

 

これは権威主義的な性格がゆえだろう。心の奥では非常に憧憬を抱いている大きな権威ほど、それの否定的側面に対しては、激しく嫌悪を感じるということをフロムは "自由からの逃走" で書いている。

 

そういう性格特性が私にはある。

 

 

続く