「現実感を以て思い出せない、あの頃仲良かった人たち」について

人のことを思い出せなくなる。思い出せないというか、本当に現実のことだったのだろうかと意識が訝しむ。10日前にあった人も、6年前に会った人のことも、忘れてしまう。顔や名前はもちろん覚えている。でも意識から完全に消えている。思い出も消えている。じゃあ今の自分はあの頃の自分と違うのか。

「フランスの高校生が学んでいる哲学」という本で、ヘーゲルの思想について読んだ時、"国家の歴史は、その国家の社会全体が成熟した結果である " というようなことが書かれていた。フロムは社会の状態が個人の性格構造に影響を与えることを「自由からの逃走」において書いていた。そこから考えると、ヘーゲルのいう、国家の歴史とは精神の成熟であり、その国家の社会の成熟度が進めば、つまり個人の精神が成熟した時に歴史が進む。各個人の歴史 (バイオグラフィ)も進み、その結果、国家全体の歴史が進む、とも考えられるのではないか。

そう考えると、10日前から大して精神の成熟度が変わっていないなら、10日前に会って今は忘れてしまっている思い出は、思い出ではないのではないか。思い出を歴史と言い換えれば、私の歴史は10日前と地続きであるから。地続きなら思い出とは言えない。

でも 6年前からすると、精神が成熟した自覚のある出来事を経験した。つまり自分の歴史が進んでいる。6年前のあの人たちは思い出の中。けれども思い出は意識の外。

つまり、今の自分があの頃の自分であろうとなかろうと、友と呼べる人は、意識の外にいる。意識の中にいる友人は一人もいない。これを孤独というのだろうか。そういう孤独感と無力感に苛まれる日々を送っている。麻薬的なものも今や効果がない。効果がないというか効果を期待する活力がない。

孤独感や無力感を感じる個人は、権威的な存在に対して服従したり、そういう存在を破壊したくなる衝動に駆られるとフロムは「自由からの逃走」で書いていた。私のように現実の世界に帰属感を得られない個人は常に孤独感や無力感を感じているのだろう。私は権威的な存在への従属・破壊衝動を往々にして持っていることを自覚している。今の自分と関わりのない記憶なら壊してしまえばいいじゃないか、となるのもその一例なのだろう。よくSNSの無意味な繋がりを断とうとして、例えばLINEなんかのグループを一気に抜けたり、相手をブロックしたりしたことがあった。自分より優れた人たちに関心があるから、一時期のあいだ接近するが、反面で自分には無力感が常につきまとう。内向的であるが故に、時間が経つと内面が向上することで孤独感を感じる。そういう他者への依存と、サディズムが際限なく自分を蝕む。そういうことに疲れている。疲れも慣れになるだろう。歳を取る度に慣れ、忘れていくだろう。そんな悲しいことはない。