2023年とandymori とオーストラリア その2

2023年とandymori とオーストラリア その1 - はてなブログ

につづき、その2。

 

その1 で書いたのは、2023年 からandymori を聞き始めたこと、グローバリゼーション時代に群衆の中で日本で生きることの居心地の悪さみたいなことを書いた。それに加え、自分の心情が欧米社会の経済成長がさまざまな人間的なものを破壊したにもかかわらず、欧米的なものに憧憬を抱いているという矛盾した状態にあるのではないかという結論に達した。

 

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今回のその2では、そんな自分が30歳直前にワーキングホリデーに行くことになったことについて書きたい。

 

ワーキングホリデーとは

原則 1年間働きながら働きながら旅行に行ったり遊べたり出来るビザ。日本ではカナダやオーストラリアが人気。昨今の国際情勢的にもヨーロッパよりもカナダ・オーストラリアの人気は健在だろう。アメリカは日本に対してワーキングホリデーがない。そもそもワーキングホリデーっていう制度ないんだったっけアメリカ。

ワーキングホリデーに行こうと思った理由

私は大卒で仕事に就いてから6年、その仕事を2年で自己都合退職し、4年が経った。ずっと実家に半ば引きこもっていた。2年くらいは親戚の仕事を手伝わせてもらっていたので、何もしていなかったわけではない。が、もちろん自分の将来には見通しがつく生活をしていたわけでもない。

 

親戚の仕事を手伝ううちに、自分の自己肯定感が生まれて初めて芽生え、いろんな意味で成長はあった。なので、もともとワーキングホリデーに行くレベルなら怖気付くほどの軟弱さではなかった。なぜワーキングホリデーだったか。

 

理由1 異文化への関心

一つは、英会話の市民講座に通ったことで、外国人講師の母国文化や思考のあり方が日本では考えもしないことの連発であり、その異文化交流を楽しいと感じるようになっていたからだ。また、もともと英会話を勉強していたこともあり、英語は話せるようになりたかった。それに、あと1年〜2年でワーキングホリデービザの年齢規定を超えるということもあった。

日本語を海外で教える、というのも異文化接触の機会として考えていた。楽しいことを仕事にできるかもしれない。

チャンスは探している限り現れるだろう。日本では日本語教育能力検定試験を受けた。まだ合格発表前だが、やれるだけのことはやりきったし手応えはあった。

国際交流基金の行っている日本語交流会がシドニーで開催されており、ボランティアを募集しているようだし参加してみても何か発見があるかもしれない。

 

理由2 「どこにも行けない」より、「遠くへ行きたい」

もう一つは、後述するが andymori を聞くうちに「どこにも行けない」という表現がところどころ出てきて、それが自分に共鳴することに気づいたからだ。誰とも関わらず、継続した仕事もない自分は、世間から隔絶され、もはや「普通の」人々の望む場所には到底同じルートで行くことはできない状態にあった。「どこにもいけない」っていうのは、そもそもスタンダードな生き方という、枠に囚われた考え方が間違っているがゆえにハマる感覚なのかもしれない。昔はそれを卑下もしたものだが、今や私の人生においては当然のことであるという認識でいて、このまま「どこにも行けない」か、「遠くへ行く」かのどちらかのような気がしていた。そういう意味では外国で自由に気の向くままに生きてみる、ということがワーキングホリデーでは可能だと思った。

 

私は、過去の生育環境が原因で、自分がやりたいことも、自分が何かやり遂げることができたという成功体験もないがゆえに、生きていても何もしたくないし、何もできないという根源的な問題を抱えていた。退職後に親戚の仕事を手伝ったことで、その状態はいくらか改善したものの、まだどこか自分のやりたいことは見えていなかった。そんな中で「やりたいこと」として「異文化の発見に対する面白さ」は自分の中で大きいと感じるようになり、ワーキングホリデーに行くことを決めた。andymori に刺激を受けた、「遠くへ行きたい」という感情もあいまって。

 

もちろんここで「やりたいことを仕事になんてできない、できる仕事を探せ」と思う方もいるだろう。それは、個性を無視した視野の狭い考えだと言わざるを得ない。なぜなら、やりたくない仕事でも続けることができるのは、一種の "才能" だと考えるからだ。

 

実際、私はそういう "才能" はなかったのだ。大卒で入った会社でソフトウェア開発をしていたが、全体のシステムが巨大すぎて、その一端を何をやっているのか理解しないまま設計書の通りにコーディングを進めなければいけない、という何の面白みもない仕事だった。当時は「できる」仕事でもなかったため、心身に不調をきたした。たとえそんな仕事ができていたとしても、続かなかったと思う根拠がある。その仕事を辞めて、親戚の会社でもプログラミングをした。ただし、自分で設計して自分で作るという点で前とは違っていた。今度は、自分で理解しながら作るので徐々に「できること」が増えた。初めはそれで楽しさを感じれていたものの、やはり顧客の要望に根差したソフトウェア開発であったため、自分が「やりたいこと」「面白いと思えること」ではなかった。次第にそこでも仕事に面白みを感じなくなっていった。

しかし、業務外で自分でやりたいことをプログラミングでどうやったらできるかを考え、学び、実行する、という過程は、とても面白く、寝食を忘れて没頭できた。

 

これが、私にとって仕事は、「やりたくないができる」仕事でもダメで、「やりたい」仕事でなければ、続かないと思った理由だ。

なので、やりたいことが働きながらできる=英語圏の文化を異文化体験できる、という点でワーキングホリデーを選んだ。

 

またプログラミング、つまり IT 業界 については、メルカリなどのような自社サービスの開発を行う企業が自分にとって「面白いと思える仕事」としては非常に魅力がある。が、一時的にこれを選ばない理由は、もちろんワーキングホリデーの年齢制限云々もあるけど、自分の中で未来が見えないというか、地道に趣味でかたわらでカタカタとプログラミングを組んで遊んでいて道が開けるのかという疑念がある以上、100 % 集中できていない気がしたからだ。

 

理由3 仕事観を広げるという意味でも持ってこいの方法だった

なのでこれから 1~ 2年は、100% 自分が心底やりたいと思っている異文化交流や英会話の学習にどっぷりと漬かりたい。

また日本語を教えるという職がワーキングホリデー中に体感したり仕事をできたりすれば、別の仕事観も見えてくる。つまり、日本語教師のような仕事は、国や役所の仕事を社会の歯車に進んでなる仕事と考えるならば、そういう歯車同士をうまく回すための潤滑油のような仕事だと考えている。国の対外政策や経済政策、労働政策と密接にかかわっているのが日本語教育だと考えるからだ。教師が学習者 (例えば日本で働く外国人労働者)と教育を必要とする側の人 (例えば企業の外国人雇用の採用担当)を、日本語教育者として媒介とするからこそ、企業で外国人労働者を労働力として使うことができるのだし。

日本語を教えるような仕事以外にも、いろんな国の人や友達に刺激をもらいに積極的にかかわっていけば、新たな仕事観がもっともっと広がるはずだ。

 

andymori を聞いたことと、ワーキングホリデーを思い立ったこと

そんな中で 2023年の正月から、半年くらい andymori だけを聞いていた。しばらく聞いていると、欧米文化への漠然とした欲求が自分にあるのではないかという気になった。とどまるところを知らない欧米経済の躍進と、ここ数十年の間、経済が停滞している日本。バブル期の栄光が過去のものになった日本社会の隅っこで、ただ陽が昇り沈んでいくのを見守るだけの日々を送っている気がした。何かしていないとおかしくなるに違いなかった。冗談ではなく、自分は何者にもなれずただひっそりと暮らし死んでいくのだろうかと妄想をもした。

 

そんな中、ワーキングホリデーに行くことを決意した。このままだと何者にも自分はなれないのではないかという、ある種、破滅への道が暗澹と目の前に続くような気がしたのだ。

 

Keep Looking, Don't settle.

 

スティーブ・ジョブズが 2005 年にスタンフォード大学でおこなったスピーチが YouTube で公開されている。

 

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あのスピーチの中にこんな言葉がある。

「自分が好きなことを探してください。まだ見つからないのなら探し続けてください。決して立ち止まってはいけません。探し続けるのです」

 

大学の就活時期に、最終的には 1年で辞めた会社への就職が決まる前に、その会社を辞めてお世話になった会社をやっている伯父から奇しくもこのスピーチの存在を教わったのも、目に見えない縁を感じる。伯父の会社で自分は何か夢中になれる仕事でないと頑張れないタイプだと学んだ。それがやはりスティーブ・ジョブズの言葉と無関係では無いように感じる。

 

私がこれまで生きてきて一番夢中になれたこと、つまり国際交流、異文化体験だ。だから、僕はワーキングホリデーに飛び立った。

 

 

続く