2023年とandymori とオーストラリア その1

andymori の 1stアルバムを 2023年の 正月に聞き始めた。

 

遠くへ行きたい

 

晦日の夜に2022年を振り返っていた。4年くらい前に聞き始めた米津玄師の歌に、"ピースサイン" があり、その一節が未だにずっと心の何処かに引っかかっていた。

 

残酷な運命が定まっているとして

この一瞬息ができるならどうでもいいと思えたその心

 

もう一度遠くへ行け遠くへ行けと僕の中で誰かが歌う

 

 

自分の心がどこか遠くへ行きたいと少なかからず感じている気がした。その時に Google 検索で "もっと遠くへ行きたい 精神世界的な意味" と検索してみた。

 

すると、検索結果の3番めくらいに、クイシンさんという方のメディア (ブログ)に andymori の曲の考察を書いた記事がヒットした。

 

その中にandymori の "遠くへ行きたい"という曲がある。

音楽には詳しくないけど、ほぼ弾き語りのような物静かな曲調で全体が作られている。

 

夜明けの街を行く

ギターケースぶら下げ

 

ギターを教えてくれた故郷の友達は

女をかいながら

つまらないと歌う

遠くへ行きたい

 

余命三ヶ月の彼女は生かされて

一年五月後のながい夜にしんだ

遠くへ行きたい

 

あまり意味はわからないが、

女をかい (買う、にせよ飼うにせよ、女遊びや服従関係のようないわゆる男女関係のことか?)つつ、詰まらない友達が遠くへ行きたい理由なのだろうか。遠くへ行きたい理由と直接繋がっているのかもよくわからないが。

 

乱暴にまとめると、儚さのような感情なのか。無気力さや命の儚さ。

 

社会的背景

その後も andymori を聞くに連れ、社会・政治的な趣向を感じる曲がままあることに気づく。

また、日本社会全体の白人への憧憬を感じる曲がある。1984 や "僕が白人だったら" など。クイシンサンという方のメディアヘ寄稿している方の記事を読むと、ジョージ・オーウェル1984というディストピアユートピアの逆)小説や、動物農場という本が背景にあるらしい。

 

1984 年は andymori のソングライター・小山田さんの生まれ年。時代的には高度経済成長期を経験した世代の子の世代だろうか。失われた30年とよく言われる、バブル崩壊の前後30年の経済停滞期より少し前だろうか。私は10年後の1994年生まれなので、実情のところはよく分からないが。

 

欧米の経済的躍進とandymori 小山田さんの歌詞

一昔前のGAFAに代表されるような白人社会 の停ること無き経済の進歩と、対比させて日本の社会政治的ムードを象徴しているんだろうか。

 

"follow me " の オレンジの太陽、や 1984の 真っ赤に染まっていく公園 が停滞して沈みつつある日本経済を象徴しているのでは、とクイシンさんのメディアに書いてあった。

 

 

真っ赤に染まっていく公園で

自転車を追いかけた

誰もが兄弟のように他人のようにさきを急いだんだ

 

親たちが追いかけた白人たちがロックスターを追いかけた

かよわい僕もきっとその後に続いたんだ

 

 

歌詞にも日本と白人社会の対比からくる哀愁を感じる。どこまでも続くかのように続く欧米の経済躍進。

 

5限が終わるのを待ってた訳もわからないまま

椅子取りゲームの手続きはまるで

永遠のようなんだ

 

 

クイシンさんのメディアに寄稿した人によると椅子取りゲームは、大学の新卒の就職活動を揶揄しているかもしれないという。

 

たしかに、永遠っていうと、東インド会社の設立から続く、資本主義の再生産を行うための歯車に人々が延々と続くための椅子取りゲーム=就職活動の様が、永遠のようだというのは分かる気がする。

いっこうに新卒一括採用という良く分からない文化が終わる気配はない。けれど 30年続く自民党政権で、経済は失われた三十年の間にGDPがほぼ変わっていない。

 

「遠くへ行きたい=欧米諸国の社会に憧れる」という個人的な印象

こうして andymori の1st や2nd アルバムを何度も聞いているうちに、うっすらと自分が感じていた遠くへ行きたいという欲求が、欧米諸国への憧れもある気がしてきた。

 

ベースの藤原さんも日本の息の詰まるような社会的風潮に辟易していたそうだ。藤原さんは帰国子女らしく、日本を外から見た時の、僕のような日本で生まれ日本から出たことがないような人には分からない感覚があったのだろうか。

歌詞を見るにつけ小山田さんもまたそうな気はする。

 

 

ひまわり畑の調子はどうだい

 

クレイジークレイマーそんな目しないで

世界で一番お前が正しいんだよって歌ってやる皆の前で

 

病名でもついたら病名でもついたら

虐められないし少しは楽になるのかな

 

 

"クレイジークレイマー" は、小山田さんが、鬱病で薬を飲みすぎて死んだ友達のために歌っている歌らしい。ひまわり畑っていうのが、その友達がタワレコの黄色い紙袋を部屋の壁に貼っていたことらしい。

 

日本の同調圧力が弱者を追い詰めて自殺大国ニッポンを作っている

この歌を聞いて、日本の同調圧力というか、均質な考え方をするような教育の無責任さのようなものを感じた。

鬱のように社会的に弱者の人への配慮というか理解というか、言ってみれば愛が日本社会には足りないという個人的感想。

そういう人たちを、自分たちの理解できる枠で当てはめてしか考えれない人が多すぎる。つまり、いい大学に行き、いい会社に入り、家庭を持ち、安楽のうちに穏やかに死を迎える、そんなことを当たり前だと思っている強者が多すぎるのだ。それ以外の人を理解できない。「あの人、仕事もせず毎日いるようだけど、何なんだろう」とか、よく言う表現ではそういうことだ。

 

こういうことを考えるたびに、中学の社会の教科書に出ていた、教育者が一人ひとりの生徒の頭 (思想の比喩)をハサミで、直角の髪型に均一に狩り揃えていく風刺画が思い出される。

 

 

自己肯定感は強者に目と鼻と口のように身に付いている

僕自身、大学を卒業して入った会社を 2年足らずで辞めている。

僕はそれで分かったのだ。大学に周りにいた友達は、社会に出るのに必要な準備が高校までに、大学生活までに整った人々なのかもしれないということが。

無論教育上の準備ではない。私も彼らも同じ教育を受けた。そうではなく、人格の準備だ。つまり、自己肯定感が圧倒的に高い人たち。対する僕は、今から考えたら大学卒業までに持ち合わせていた自己肯定感はゼロに等しかった。

 

"Life is party/ ウイスキー" と "ベンガルトラ/ 空" 的なモチーフ

曲名の "Life is party " は、欧米文化に触発された消費社会の比喩だと思う。対して、Life is partyという語が使用される "ベルガルトラとウイスキー" で歌われている 「きれいな空」 という表現がある。これは、キリスト教のアダムとイブの裸であることを知り、恥じるという動物を超越した存在が自分たち人間である、という原罪的な対比だと思う。

 

16 の「明日もずっと空を行くのさ」、"オレンジトレイン" の「最後のお願い聞いてあの空の向こうに連れて行ってほしい」なども、この "空 " 的なモチーフ。

weapons of mass distruction という歌にも、「コンクリートジャングル」と、「自然に憧れる人間たちの憐れな営み」という表現がある。それぞれ "ベンガルトラとウィスキー" でいう life is party、「きれいな空」とほぼ同義と捉えている。

 

グロリアス軽トラ

そういう意味では、グロリアス軽トラのYouTubeで上がっている動画を見てみるとコンクリートジャングルの意味がよく分かる気がする。

andymori のメンバーが軽トラの後ろで演奏しながら都会を軽トラで走っていく。この小山田さんがめちゃくちゃ楽しそうなのだ。任天堂DS、PSPが半額…広告のネオンサイン。警官が振り向く。街の景色がandymori の傍らを風のように去っていく。city lights がキラキラ、チカチカ明滅する中をゆっくりと走っていく軽トラ。その上で踊るように歌う小山田さん。

 

欧米を中心に牽引される資本主義社会の中を鼓笛隊が音楽を鳴らしながら走る。ただし商業音楽ではない。2023 年、悲しいけどすぐに音楽は消費される。こないだなんて、米津玄師の Pale Blue がピアニカ化されたメロディーだけがホームセンターに流れていた。まだ2年前の曲だ。広告産業など、人類から色んなものを奪っていく資本主義の怖さ。有料サブスクリプションで自分だけの音楽に浸ろうとか言いながら、広告識別子で連鎖した情報が抜き取られ分析され金になっていく。

 

 

city lights、遠くで光る街明かり

city lights の「エコバッグのアバディーン・アンガス」的な、街の光…人の気持ちを否が応でも明るく惑わせるコピー・ライティング、冷蔵庫の前でなんだかつまらなくなったらおいでよ、なクラブ……笑顔を振りまくアイドルたち、広告で引きつった人形のような笑みを浮かべるタレント……大音量で閃光をばらまく渋谷の巨大スクリーン。

 

たしかに明日へのエネルギーは嘘でも必要かもしれないが…キラキラの行き過ぎに注意をこれっぽっちも払わないのはどうかと思うが。

 

そんなことを思うと、米津玄師の "アンビリーバーズ " が頭の中をどうしても流れる。

 

 

遠くで光る街明かりにサヨナラをして前を向こう

 

そうかそれが光ならばそんなものいらないよ僕は

こうしてちゃんと生きているから心配いらないよ

 

 

この先の無事を祈っていた

シャングリラを夢見ていた

 

 

「楽園なんてないよ」と、理想郷の光を背に一人逃げ道を探しながら、引き算で生きていく。日本社会で多くの人が盲信している希望や幸せは、固定化・形骸化していると思う。自由恋愛が広まったのは19世紀かそこらなのに、あたかも当然のように現代に居座っている、当たり前の家庭・マイホーム・老後の夫婦での幸せに満ちた年金生活…別に良いのだが、教養もなく、ただ何も感じずにそれに流されるのは良くない。結果的に良かったとしても、生育環境や社会が個人の幸福を形作っているのではないことを知らないままなのは残念だ。仕事で自分の幸福を感じれるなら良いのだ。ただ、それだけの枠に当てはめて他人を物差しで測るのは如何ともし難い。子どもへの愛情は資本主義の再生産に使われるだけで終わっては、人間の尊厳もへったくれもない。家庭をもって子供を育て、社会に出すだけではなく、自分なりに愛とは何かを死ぬまで追求するくらいの覚悟はほしい。その愛は家族愛だけでいいのか、家族愛ならどんな自分らしさがそこにあるのか、あるいは精神世界的な意味での愛なのか。人間、家族愛に資する人ばかりではないのに、それを卑下するような一昔前の頭の堅い固定観念は減っていると期待したい。

 

私が andymori と共鳴する (と思っている)部分を中心に書いた。つまり、資本主義、特に欧米の破壊的な力が奪ったものを知っていながら、それに追従したい、騙されたいという欲求があるかもしれない、みたいなことが言いたかった。それが私の中に芽生えている「遠くへ行きたい」という心的現象なのかもしれない。

 

次の回では、そんな私が andymori を聞き続け、オーストラリアにワーキングホリデーをしにいきたいという欲求につながった話をしたい。

 

また、いつまで連載が続くか分からないが、来る渡豪後のことも、書けたら書きたい。今この記事を書いてるのは、渡豪の1ヶ月前だが、一年二年は頑張って向こうに留まるつもり。

 

 

 

つづく