あいみょんの作詞にみる過去と今のカオス性

過去は今とどう繋がっているのか。脳に存在する過去の記憶が何かのきっかけで今に浮かび上がっているのだと思う人もいるかもしれない。フランスの哲学者であるベルクソンは、記憶が今に現れてくるとすれば、それは身体的な反復運動に置き換わるものだと言った。では私の頭にふと浮かぶこの、過去の思い出や目にしたイメージはどのようにして現在に表出してきたのか?今私が突き当たっている疑問はこれである。

 

どうすれば、過去のイメージ、思い出すべきものたちを能動的に現在に招くことが出来るのか。そもそもそんなことは可能なのか。その方法があるなら手探りででも見つけていきたい。生涯のうちにその答えに行き着くことはできないのかもしれないが。

 

そんな風に考えていると、あいみょんの「マリーゴールド」が以前とは違って聞こえてきた。この曲では過去と現在が交互に、というか混在して入れ代わり立ち代わり頭に沁み込んでくる感じだ。

 

冒頭は、たぶん現在にいる男、または女の視点である。便宜上男としておく。

 

風の強さがちょっと心を揺さぶりすぎて

 

女と別れて少し思い出すくらいの時期を想像したら分かりやすいだろうか。ふとした現在の何かをきっかけに心が動くことはある。この場合それは風である。

 

続く1番のサビの部分もたぶん現在じゃないか?

 

あれは空がまだ青い夏のこと

懐かしいと笑えたあの日の恋

 

この歌詞より前の部分で言っているように、今目の前で風に揺れたマリーゴールドによって、女の子のことを思い出した、というような感じかもしれない。現在、現在、ときてここで過去との境界線が曖昧になっている気がする。

 

となると二番の冒頭はやはり過去から入っているような感じがする。女の子と別れる前の心情にも取れる。

 

本当の気持ち全部吐き出せるほど強くはない

 

心理的には弱さを見せれない表面的な交流では、共に相手に依存した関係性にも思える。相手に嫌われないように取り繕うということなら、相手の感情に心理的に依存している。そういうところから、二人を結んでいた糸がほつれていくことは多いのかもしれない。

 

この後の2番はそのまま過去の情景で進んでいく。Cメロから先は、現在、過去と移り変わって、最後の部分は現在?過去?という感じで終わっている。

 

雲がまだ二人の影を残すから

いつまでも いつまでも このまま

 

離さない ああ

いつまでも いつまでも 離さない

 

過去は今とどう繋がっているのか。「マリーゴールド」でもそうだが、現在において知覚しているものが、例えば、風が、花が過去の記憶イメージを呼び起こすことは多々ある。この自動的な流れ。記憶というものは受動的にしか感じられないものなのだろうか。それならこっちから記憶たちを迎えに行くことはできないのか。例えば、思い出したくないからと避けてきた懐かしい場所をすすんで訪れに行けばよいのだろうか。遠くはいけないから、今度Google マップ立体写真モードにして歩こうかな。