時間論とあいみょん

過去が現在につながっていない時、過去とは記憶である。

過去の経験が物質的な人体の運動を通して現前化する時、現在とは過去でもある。過去の反復という意味で。近代哲学のベルクソンは「物質と記憶」でそんなことを書いているそうだ。

 

2020年現在リリースされたばかりのあいみょんの「さよならの今日に」。この曲には過去の反復としての現在に生き悩む人が描かれているのではないか。あまりに現在から独立している記憶に対して、現実感が薄くなることは誰しもあるんではないか。私もその一人だ。

 

切り捨てた何かで今があるなら

「もう一度」だなんてそんな我儘言わないでおくけどな

 

たとえばあいみょん本人の状況を勝手に仮定して説明してみると、

過去の反復とは、簡潔に言うとギターを弾き歌うことだ。反復のイメージがこれだけではつかめないかもしれない。ギターを弾くことは、彼女がギターを弾き始めて以来練習を通して習得した、左手と右手の運動の反復といえる。過去に身に付けた運動の仕方を、「現在」化しつづける、それが彼女のライフワークである。

 

一方で、彼女の現在に対して「過去」とは歌詞でいえば「切り捨てた何か」である。

それは純粋なイメージとしての記憶である。これが実世界に現れることは絶対にない。だから「もう一度だなんて」ないのである。例えば、あの時彼と別れた、とか学校を中退した、愛犬の死とか。そういう過去に絡め捕られながらも、今進んでいくことを歌っているんではないか。