豚にされた千尋の父に見る「父なるもの」の崩壊について

千と千尋の神隠しが好きだ。テレビやDVDで何度も見た。

見たあとの「心の原風景に連れていかれる」感がたまらなく好きだ。

 

その中でも印象的なシーンがある。

主人公の少女・千尋の一家3人が新居に向かう車移動の途中で、時が止まったままであるかのような無人の街に迷い込んだシーン。ここから物語が加速するといってもいい。

千尋の父親が、店主も客もいない屋台から食べ物の匂いがするのに気づき、「勘定はあとで店の主人が出てきてからでいいでしょう」と口にする妻と並んで、屋台の料理をパクパクとつまみ出す。

そんな両親を背に、「もう帰ろうよ!」と半ば訝しみながらも興味本位であたりをブラつく千尋

すぐ両親のもとに引き返すも、屋台の席には両親の衣服をまとった、肥えた豚が二匹。本来は遠路訪れた神様に給仕される料理を食べた罰が両親に下り、姿を変えられたのだ。

 

このシーンについて最近思ったことを書いてみる。

一言でいえばこのシーンは、

まだ幼い少女である千尋が「父なるもの」の幻想を打ちくだかれるシーン

である。

 

ここで「父なるもの」とは心理学の用語で、干渉の強い父から子が自立するために捨て去るべきだとされる「父の勇姿の幻影」である。そんなものはなかったという否定が、子の自我を真に確立させる。

 

このシーンで象徴された、千尋が父に対して無意識下に抱いていた「父なるもの」は「怖いもの知らずの父」のイメージと言えるのではないかと思う。それは「考えの浅い無謀な少年」の裏返しでもある。ここから徐々に「怖いもの知らずの父」は千尋の無意識から意識の領域へと分離されていく。

 

では千尋の中で「父なるもの」神話が崩壊したとはどういうことか。

たしかに、父が豚にされる前の千尋にとって、

まだ幼く世間のことを十分に知らない彼女から見ると、人間の気配のない不気味な屋台にも関わらず屋台の料理にためらいなく手を付けた父は怖いもの知らずの「英雄」であった。

それが、ちょっと目を離して帰ってみると、その「英雄」気取りの稚拙な父性のために罰を受け、父は豚に姿を変えられている。この時、幻影としての「父なるもの」が崩れ始めたのだ。

 

例えばこのシーンの他にも、「英雄」としての父が描写されている。

かの有名な父のセリフ、「この車は四駆だぞ!」である。

油屋に迷い込む前、新居付近まで車で行きついたもの、肝心な新居までの一本道が見当たらない。

しかし父は臆せず自分が選択した道路を疑わず、舗装されていないガタガタ道を自慢の四駆で猛スピードでとばす。まさに「英雄」。

 

しかしそれは、父の「幻影」である。猛スピードで突っ走っていた車は、フロントガラスの視界を覆う樹木の枝からだるまのような石柱が急激に現れ、車は急ブレーキで石柱の寸前で止まる。行きついた場所が油屋への入り口とも知らず。「英雄」になりそこねた父はただの「冒険好きの男の子」である。

 

もっとも、これらの段階ではまだ千尋自身は意識的には父の幻影には気づいていない。

この「父なるもの」が千尋の無意識から意識へと表出し、千尋の意識に否定されていく過程を「千と千尋の神隠し」は描いていると感じた。

その過程で、もう一人のキャラクターであるハクという少年と出会うことが千尋になにを与えたか。それが次の考察の関心である。

 

ああ、今とても千と千尋の神隠しを見たい。「四駆だぞ!」と豪語した千尋の父の背を拝むために。屋台の暖簾をさっそうとくぐって消えていった千尋の父の幻影をもう一度。