私はあいみょんをきくのだが、このあいみょんというアーティストは掴みどころがない存在だと感じている。掴みどころのなさが私があいみょんにドハマりしてしまった原因でもある。
「私はあいみょんをきく」という時、いろんなあいみょんがそこに想定される。
ボーッとした精神状態の時にBGM的に聞いているのはポップスアーティストとしてのあいみょんである。
世に出る時にポップさでバカ売れした、あの某スマホになぞらえて、ここではこのあいみょんをiMhoneと呼ぶ。人の呼称にスマホの商品名を選ぶのはどうかと思うが。
若者は流行に敏感である。なんでも今iMhoneが流行っているらしい。そんな世のトレンドに飛びつく男女はこぞって、洗練されたシンプルなデザインの空間にレイアウトされたiMhoneを手にとり、何となく聞き流しては去っていく。iMhoneの固定ファンになってくると、古くなったiMhoneを新しいiMhoneにアップデートしてはまた古くなり、最新のiMhoneを際限なく追い求めていく。
しかし私が聴いているのはiMhoneとは別の存在が表現する曲である。最新のiMhoneに関心はもはやあまりない。
私が求めてしまうのは「トランスジェンダー」型あいみょんが歌う曲である。
このタイプの曲では、歌詞の語り手が少年だったり、少女だったり、中年男であったりする。
例えば以下は「ほろ酔い」という曲から抜粋した歌詞である。
ほろ酔いは 俺を ダメな男にする
この場合、語り手の性別は完全に男である。「俺」である。
「私」でも「僕」でもなく「俺」である。
歌詞だけ見ると昭和の歌謡曲っぽい。
「私に彼氏ができない理由」という曲がある。
これはタイトルが「私に彼氏が...」となっていることからも女目線の曲である。
以下、その歌詞を抜粋。
私に彼氏ができない理由は 極度の人見知りと
好きな人に気づかない鈍感さかな
こうして2つの曲の歌詞を並べてみると全然違いすぎて改めてビビった。
ほろ酔いは 俺を ダメな男にする
からの、
私に彼氏ができない理由は 極度の人見知りと
好きな人に気づかない鈍感さかな
である。私はこの「両性具有のあいみょん」のことを勝手に「ペルソナ化したあいみょん」と名付けた。
「ペルソナ化したあいみょん」は楽曲の中で、個人や性別という概念から完全に自由な存在である。
あいみょんの本名を仮にA子としよう。歌の中での両性具有のあいみょんの存在は、もちろん現実の個人としてのA子でもなく、巷で話題のポップスアーティストとしてのiMhoneでもない。
「ペルソナ化したあいみょん」という別人格として音楽の中に存在している。その歌はあなたが今通っている学校の気になるあの子が歌っているのかもしれないし、あなたが3年前に別れた男性が歌っているかもしれないのである。
だからあいみょんを聴く時、あいみょんという仮構された存在を通して、男も女も関係なしに、「個人の自我」に侵入し、その人の世界を覗き見している気分だ。 例えば、「○○ちゃん」という曲の歌詞を見てみよう。
私のどこがダメですか? 料理だって人並みにできるのに
将来はきっといい女 誰かもらってね
この曲の視点は女である。世間一般に見ると「ダメな女」と烙印を押される女だ。
お酒を飲みすぎて好きでもない男と寝たこともあれば、タバコもやめられない。それでもお嫁さんになることを夢見ているのだ。
この曲を聴きながら私たちは「ダメな女」化する。完全ではないからこそ愛し愛されることを夢見る、普通の女性の自我を追体験させられているのである。
もっとおもしろいのは、この曲のPVで、あいみょんが男側に扮していることだ。
袴を着た新婚夫婦の新郎にあいみょん本人が扮して歌っている。あいみょんが男視点(新郎)からダメな女(新婦)を見ているのである。
この曲をあいみょん自身の視点で書いているのだとしたら、新郎ではなく新婦の方に扮しているはずである。こういうところも、あいみょんが一般化した個人のペルソナを被って歌っていると感じさせる。
あいみょんからおじいちゃん視点の曲がいつ発表されてもおかしくない。さすがに若者にはピンとこないかもしれない。それを機にシニア層にもバカウケしないだろうか。