・私とあなた
・あなたと一緒に居られない私
というふうに2人の男女の関係が描かれることが特に多い。上記において「私」はあいみょん自身のことではなく、あいみょんがペルソナを被った状態で語る、一般化された存在のことを表している。
あいみょんの曲の中で語られる「私」は、つい最近まで一緒だった彼のことがまだ大好きなフリーター女子、かもしれないし、明日を生きることに怯える男の子、かもしれない。
しかしこの「私」は必ずしもペルソナを被った「誰か」ではない。
あいみょん自身が世界に直接語りかける曲は少数ながらも存在する。
例えば、「泥だんごの天才いたよね」。この曲はあいみょん自身が歌う曲といえる。
ドンキにたかる若者集団
夜間限定で「最強」と名乗る
昼間は親にペコペコしちゃっていい子ちゃんをしてんのだろう
私(あいみょん)→あなた(一般社会のあなた)
という視点だ。
まあ、あなたに何かを要求する、という点では
私(ペルソナ)→あなた(一般化した私にとってのあなた)
という視点の曲と同じだが。カップルの女(私)が相手(あなた)に理想像を押し付けるといったのと同じで、あいみょん(私)が一般人(子どもを育てる親)に正しいことを教えてほしい、という要求をかけていると私はこの曲を読んだ。
この曲の子どもたちは自分の感情を隠し、抑圧するよう教えられている。いつも親の意向や期待に添うよう「ペコペコ」している。自分を抑圧されるから、夜の街で虚勢を張り、本当のふりをした自己を解き放とうと躍起になっている。
それをあいみょんは批判している。この曲のように、世間に対して批判がされるなんてことは、あいみょんの曲ではレアだと思っている。
また、批判ではないがあいみょん自身の思考が描出される曲もある。
例えば「どうせ死ぬなら」。
どちらかと言えば死にたくないわ
あらかじめ 人生のタイムアップを教えて
私などはタイムアップなど知りたくない。来年死にますって言われても困る。
また違う曲を。「19歳になりたくない」。
「どうせ死ぬなら」と同じく彼女の死生観が垣間見える曲。
18の今言えることは一つ
何故人は減る命に祝いを捧げるの
タイムアップの見えない、死へのカウントダウンを人は祝う。ということだろうか。
たしかにそう考えると残酷にきこえる。
マインドフルネス瞑想で知られる禅僧・ティクナットハン氏は「誕生日おめでとう(Happy Birthday)」より「継続の日おめでとう(Happy Continuous Day)」と言った方が正しいと言っている。これはいかにも禅の思想を表した言葉だと思うんだが、
輪廻の思想では魂は死んですらもなお不滅であり、生きている間はその身体という形をとって存在しているにすぎない。だから、この身体という生物としての継続おめでとう、ということである。
ふと思ったが、この継続おめでとうは誰に対してのおめでとうなのだろう。この身体に対してのおめでとう、なら植物に対してありがとう、というのと似たようなものである。身体に意思はない。その人の魂に対してなら、魂はこの身体であり続けていることを尊重されたいと思っているんだろうか。おめでとうと言われて嬉しいのだろうか。輪廻によって宇宙が終わるまで永続するのに人間としての約100年の継続に対して、おめでとうと言われても魂にはピンとこないんではないか。
魂が身体に宿っている時のみその人が存在する、と認知している自我に対しておめでとう、というのが今の私にとってはしっくりきている。「誕生日おめでとう」は魂には届いていない。誕生という概念は自我によって認知されているからだ。
「何故人は減る命に祝いを捧げるの」
と聞かれれば、
「魂が身体に宿っていると考えに立てば、そのことを善いことだと認知した自我同士において『誕生日おめでとう』は交わされる。しかしそれは輪廻思想においては矛盾している。
なぜなら魂は身体に宿っていようといまいと不滅だから、たかだか人としての一生分の魂の継続を祝われても魂としては違和感を持つだろうからだ。」
と答えるだろう。
こんなファンが自分の曲を聴いているとあいみょんがきいたら引きそうだ。
まあ、誉れの言葉をかけられることが好きな魂は「継続の日おめでとう」と言われれば、素直に「ありがとう」というかも知れない。照れながら。照れる魂のイメージがつかないが。