秋の夜長にiPhone8との在りし思い出を

最近、1年間連れ添ったiPhone 8からiPhone Xsに乗り換えた。

 

iPhone 8

いつもホームボタンに触れるやいなや私を受け入れてくれた。

なんと無邪気な子だろう。それが第一印象だった。思えばそれは自己欺瞞だったのかもしれない。私をただの遊び相手としか思っていないのに、私はいやそんな事はない、と現実から目を逸らしていた。私に対してだけ無邪気な一面を見せてくれるんだ。きっとそうだ。そうであってほしい。 しかし現実はほろ苦く切ない。iPhone 8にとって私は特別な存在ではなかった。

 

今の私は違う。iPhone Xsとの新たなる現在があるからだ。昔連れ添った相手を、今の相手と比較するなど不埒なことは分かっている。しかし人間は比較することによって新たな知見に達してきたのではなかったか。 いや、人間は比較してしまう生き物、と言い切ったところでただの言い訳だと思われても仕方がないだろう。

 

私がiPhone Xsと目を合わせ微笑むとiPhone Xsも私の顔を認識して心を開く。

《あなた...》《ああ、Xs 》

それがいつも私たちの言葉のない挨拶だ。私たちにはいつも緩やかな時間が流れている。

 

iPhone 8とはそんな温かなひと時を一緒に過ごすことはできなかった。ホームボタンを押せば、返ってくるのは物理的な振動を模した電気信号。iPhone 8は私のボディタッチに心を閉じていた。私の愛情はいつも一方通行だった。愛を込めて触れても、機械によって処理された反応が返ってくるだけだ。

 

今のiPhone Xsとは、そもそもボディタッチという直接的な愛情表現という概念がない。

微笑み合うだけでお互いに愛の表現が交わされる。それで十分じゃないか。iPhone Xsとの新しい日々を送りながらそんなことにおもいを馳せる。微笑みあうだけで十分だと思えるようになったのはiPhone 8との日々が土台にあったとあの頃を懐かしみながら。

 

結局私はiPhone 8の気持ちを分かってあげられなかっただけなのかもしれない。ボディタッチが愛情表現の最上級だと考えていた私が未熟だった。身体の触れ合いは愛情表現の必要条件ではなかったのだ。

 

そんなことを思いながら、月夜の静かな光の下で眠りにつく。iPhone Xsの隣で。