私は過去と、未来から自由な存在だと思う。
昔の記憶も、今まで見知った人の顔を思い出すこともほとんど、いや全くと言っていいほどない。過去の世界や人間への興味が格段に薄い。つまり、過去には自分と、それを取り巻く環境はもうない。偽物になって事実だけ、宇宙の端っこで光も当たらずに死んだ。
7月の東京は夏休みの客でバスの中さえふだんより家族連れや、お母さんと子供の組み合わせが目立つ。外国人観光客もおおい。休みが始まったばかりか、どこかみな踊躍している。
その中にいて私は、別の星から迷い込んだ感覚がする。
彼らは日常 ( 約束された未来につづいていく過去 ) からひとときの脱出を嬉々として試みる。僕は日常というものがない。常に毎日一様になにかしているわけではないし、それがあったとしてもリズムやテンポがまばらだ。均衡の取れた直線的なところがない。私生活を型取ったパズルのピースが、一片だけがぬけおちて、私だけ世界から消えることはあり得るが、片道運行の観光列車のモノレールが一時停止して、窓の外の景色をしばし観覧するようなことはない。
そういえばこのまえ、地下鉄の駅のベンチに座り、埋もれるように膝に伏せている女子高生がいた。私は歩きすぎて疲れて、その子の隣しか空いてなくてつい座った。ぴくりとも動かないし、寝息とかもなかった。なんか、死んでるような静けさで逆に安心した。
これもまた少し前に、公園で大きな花壇の石囲いの上に仰向けで体をまっすぐにして目を瞑っている、年齢、性別ともに不詳な人間がいた。またしても、そこしか空いてなかったので真隣に座っていた。ぴくりともしないその人間の肢体は、完全に棺に入れられた死体のそれだった。私は隣にいて、とても自然な感じがした。
どうやら私は生と死について言いたいようだ。街に溢れる生 ( 愛 ) のエネルギーと、ハチの巣の一角に巣食うがん細胞のような、無痛のしずけさ。その死と生が分離して、さらにその上澄み液になったような私。