親からの抑圧を受けた人がフロムとニーチェを読んだら

社会心理学から見た個人の性格

【フロム "自由からの逃走 (東京創元社)" 付録「性格と社会過程」より要約】サディズムなど、外的要求 (経済的な競争)に働きかけられて個人が抱いた感情・考えた思考・行った行為ではなく、内的な衝動 (良心や義務)が個人に生まれる。権威主義的性格で権威的なものへの破壊衝動を持つ個人は、そういう良心や義務などの内的衝動に走りやすい。

権威主義的性格…一例としてヒトラーに見られるような、社会構造に影響を受けて形成される個人の性格の一つ。社会に対して個人が抱く劣等感や無力感が、個人より遥かに強い地位を得ている権威的な組織や政治的組織にその個人を容易に服従させたり、組織や社会や経済に対する破壊衝動を個人に起こさせたりする。そういう個人の性格をフロムは「自由からの逃走」において "権威主義的性格 " という言葉を用いて説明している。

ニーチェ哲学から見た良心

ニーチェ "ツァラトゥストラ (中公文庫)第二部 "「同情者たち・僧侶たち」より要約】神は人間に苦悩することを説き、弱き者への同情・良心を徳とした。またそれを神への人間の義務とした。神に帰依すれば、苦悩から開放された彼岸を約束することが愛だと神は説いた。ニーチェは創造性を失ったゆえに「神は死んだ」と考えた。創造は同情を超えなければ到達し得ないから。それよりも創造的な超人になるためには、人間は同情を超えていかなければならない。超人は苦悩を肯定できなければいけない。そうして始めて人間は創造的な事が成し得る。

 苦悩するものは他者に苦悩を求める(超人思想では、永劫回帰・つまり苦悩は肯定される)/or 人生に楽しみを持たない者は、他人に苦痛を与えることをする。人生に苦悩を求める神は、それが神への愛だという。神を愛し、帰依すれば苦悩から開放された彼岸へ渡れる。神はそれが神が人間を愛することだと言った。

インドの宗教から見た神の愛

シュリ サティヤ サイ ババは、人間の基本的な性質は神聖であり、人生の目的はこの神性を実現することであると教えています。それは、道徳的な生活を送り、困っている人々に無私無欲の奉仕を行い、献身的な実践に従事し、すべての命に対する愛、尊敬、思いやりを育むことによって実現すると神は述べています。人が自己中心的な欲望と執着の世俗的な生活を、無私と献身的なより高次の霊的な生活に変えようと努力するとき、神の恵みを受けるための基盤が構築されます。この恵みこそが、私たち一人一人に私たちの本当の性質を明らかにしてくれるのです。

SSSIO(シュリ サティヤ サイ インターナショナル オーガニゼーション)HPよりhttps://saiaustralia.org.au/about-sai/

 

感想

うーん…フロムのいう権威主義的性格・サディズム的性格の者は、良心・義務=苦悩 (宗教的ないわゆる「人生は苦」・苦行に耐えて彼岸に渡ることができて神に愛され解放されるという考え方)に走る傾向がある、と言っているけど…ここではこの主張はフロムが警鐘を鳴らしているのだと言う前提で捉える。良心や義務というのは飽くまでキリスト教でのことを言及していて、インドの宗教学までは考慮に入れてはないんだろうか。違う意味でニーチェに同調するように、フロムもキリストにおける良心・義務の概念は権威主義的性格の者には危ないよと言っているんだろうか。容易に権威に従属してしまう性格なのだから、それを考えればそういう解釈で合ってそうだけど。

 

ニーチェも、ツァラトゥストラではキリスト教を念頭に宗教批判をしているわけだ。簡単に言えば苦悩からの解放、仏教で言えば浄土信仰のような、ヒンズー教で言えば解脱?(あまり詳しくないが)をニーチェは良しと考えず(飽くまでキリスト教を念頭に置いての話だが)、"ルサンチマンに浸らず、逆に苦悩を望んで永劫回帰させよ、そういう超人を目指せ " とニーチェは言っている。ニーチェツァラトゥストラではキリスト教の神の愛を否定している。

 

ヒンズー教に根ざしている神の愛や、奉仕、徳、といったSSSIOの概念がキリスト教の場合とどう違うのか…私はどちらかというと、今までの経験の話だけで言えばフロムの権威主義的性格・ニーチェルサンチマン/永劫回帰が自分に刺さる概念だったわけで。その流れでいくと、キリスト教とは私は相容れないんだろうな。でもインドの宗教原則はどうなのか、まだよく分からない。心理学、哲学を中心に本を読んできたから、やっぱり宗教的側面の教養や知識がこの先必要だな。

 

中公文庫のツァラトゥストラの巻末付録で、訳者と三島由紀夫の対談が載ってるんだけど、三島由紀夫が「ニーチェに東洋のインド哲学や宗教学を教えたら、ニーチェはどういう影響を受けたでしょうね」と言っているあたり、ニーチェの超人思想はインド哲学ヒンドゥー教と必ずしも敵対はしないようなニュアンスもあるな…やっぱり私はインドの哲学や宗教といった文化には興味がある。ニーチェの「神は死んだ」を呑み込んだあと、私はどう進むのかというあたり。本って一生読める気がするな。

「現実感を以て思い出せない、あの頃仲良かった人たち」について

人のことを思い出せなくなる。思い出せないというか、本当に現実のことだったのだろうかと意識が訝しむ。10日前にあった人も、6年前に会った人のことも、忘れてしまう。顔や名前はもちろん覚えている。でも意識から完全に消えている。思い出も消えている。じゃあ今の自分はあの頃の自分と違うのか。

「フランスの高校生が学んでいる哲学」という本で、ヘーゲルの思想について読んだ時、"国家の歴史は、その国家の社会全体が成熟した結果である " というようなことが書かれていた。フロムは社会の状態が個人の性格構造に影響を与えることを「自由からの逃走」において書いていた。そこから考えると、ヘーゲルのいう、国家の歴史とは精神の成熟であり、その国家の社会の成熟度が進めば、つまり個人の精神が成熟した時に歴史が進む。各個人の歴史 (バイオグラフィ)も進み、その結果、国家全体の歴史が進む、とも考えられるのではないか。

そう考えると、10日前から大して精神の成熟度が変わっていないなら、10日前に会って今は忘れてしまっている思い出は、思い出ではないのではないか。思い出を歴史と言い換えれば、私の歴史は10日前と地続きであるから。地続きなら思い出とは言えない。

でも 6年前からすると、精神が成熟した自覚のある出来事を経験した。つまり自分の歴史が進んでいる。6年前のあの人たちは思い出の中。けれども思い出は意識の外。

つまり、今の自分があの頃の自分であろうとなかろうと、友と呼べる人は、意識の外にいる。意識の中にいる友人は一人もいない。これを孤独というのだろうか。そういう孤独感と無力感に苛まれる日々を送っている。麻薬的なものも今や効果がない。効果がないというか効果を期待する活力がない。

孤独感や無力感を感じる個人は、権威的な存在に対して服従したり、そういう存在を破壊したくなる衝動に駆られるとフロムは「自由からの逃走」で書いていた。私のように現実の世界に帰属感を得られない個人は常に孤独感や無力感を感じているのだろう。私は権威的な存在への従属・破壊衝動を往々にして持っていることを自覚している。今の自分と関わりのない記憶なら壊してしまえばいいじゃないか、となるのもその一例なのだろう。よくSNSの無意味な繋がりを断とうとして、例えばLINEなんかのグループを一気に抜けたり、相手をブロックしたりしたことがあった。自分より優れた人たちに関心があるから、一時期のあいだ接近するが、反面で自分には無力感が常につきまとう。内向的であるが故に、時間が経つと内面が向上することで孤独感を感じる。そういう他者への依存と、サディズムが際限なく自分を蝕む。そういうことに疲れている。疲れも慣れになるだろう。歳を取る度に慣れ、忘れていくだろう。そんな悲しいことはない。

異国での躁鬱と不眠の夏、そして麻薬的なもの

うつ病かもしれない。と人生で初めて感じている。オーストラリアで。

スマホのアプリでストレス度合いを記録していたのだが、

このまえ土曜の朝はなんのやる気もしない気持ちだった。なのに日曜は嘘のように晴れやかな気持ち。先の不安も感じない。

と思うと月曜には不眠で寝不足。調べるとうつ病とよく併発するものらしい。不眠じたいは1ヶ月前から時々ある。

平日の真ん中の木曜日にも、うつ病の波は来た。起きた時には 10 時間も寝ていた。その日は昼過ぎまで体全体が重く、ベッドのうえで過ごした。その前日には普通に語学学校にも行った。行きたくはなかったが、クラスメートの顔を見るためだけに行った。それくらいの理由にも関わらず外出はできたのだ。しかし、この日は違った。一歩も家から出たくない気持ちになったのだ。なのでもちろん学校にも行かなかった。散歩には行った。こんな状態で病院に行くなんてできるわけがない。うつ病の人に病院に行くのを勧めるのは無理な話だというのが頷ける。うつ病の人は、周りの人が病院に連れて行ってあげるべきなのだ。シェアメイトとはそんな信頼関係を築けていないし、私の周りには病院に連れて行ってくれる人はいない。異国だということも尚更手伝って病院など行けようはずもない。躁状態の時には、病院に行くよりもっと面白いことに気を取られてしまう。

 

そういえば 2年半前に別れた女性はその時期に仕事でうつ病になった。その発症の1ヶ月前に数週間同棲したが、3ヶ月後くらいに別れた。

 

オーストラリアに来る前から、麻薬的なものは私にはある。ポルノビデオだ。いたした事後は、倦怠感で暫く起き上がれない。

 

そしてサディズム権威主義的性格と、サド&マゾヒズム的性格。本当におかしくなりそうなほど制欲がほとばしるのに、その対象を蔑みたい衝動に駆られる。前に付き合っていた彼女が子供を育てているかもしれないその同じ時に、私はその彼女としかしたことがないセックスの幻影を追い続けている。自分が今までの人生で一人の女性としかしていないことに、そして彼女がそれを知ったらあの男は他の女とはやってない、私だけだとほくそ笑むのではないかということを時には誇大妄想したり、惨めな思いをしたりしながら。惨めどころか、内側を駆り立てる激情が感じられるくらいだ。

 

それをどうにかして現実に彼女を作る気持ちに向けたいが、自己肯定感が最低でそんな気持ちも煙のごとく一瞬で消える。麻薬的なものに逃げてしまう。ポルノビデオ・酒・音楽。

だが、結局は彼女ができたとしてもセックスが麻薬的なものに置き換わるだけで本質的には変わらないのかもしれない。

以前にはない、女性との心のつながりがあれば少しは違うかもしれないが。

 

そして、どこにも行けないような感覚。

生きづらさを感じた日本や家族、知人関係。閉塞感しかない生活。その全てから抜け出すためにオーストラリアに来たのに、そこでさえ確たる居場所が感じられない。皆に自分だけ追いつけず、知らぬ間に自分がいる都市から誰もが離れていく。

日本を発つ前は、どこか遠くへ行けそうな気がしたのに、どこにも行けない。

 

この人生を辿ることを100人いたら100人が拒否するような人生を歩んでいる。

自殺者の気持ちが分かる。楽に死ねる方法があるなら死んでもいい。

 

普通に日本に帰っても働けるような人は、周りの人は「帰ったほうがいい」というだろう。

しかし私は日本に帰ったところで何ら状況は変わらない。

先の見えないまま ITスキルを独学で身に付けなければ経済的に自立した生活は望めない。生活保護を受けて孤独に自然と日常に戯れ、老いを忘れて無邪気に死を待つ生活が待っている。

そんな気分なのに、帰国したいとも思わないのは当然だ。

 

なかなかレジュメを配っても成果がないから帰国がやむを得なくなるかもしれない。とはいえ、オーストラリアのワーキングホリデーでは、最長でも半年に一回はバイトを探さないと生活費がなくなる。日本で正社員で何十年も働けることに比べれば、求職のストレスはやむことはない。バイト経験と、語学力が増えれば少しは楽なのかもしれないが。

 

ファームには行きたくない。行っても語学力の習得という意味では何の足しにもならないし、

田舎暮らしに憧れているわけではない。ただ、旅行には行きたいので資金のためにファームに行くかなくらいの感覚。そうでもなければ帰国する。うつ病の中においては旅行も意欲が時々霞む。

 

どこか遠くへ行きたい、そう思ってオーストラリアに来たことが思いの外、自分の中では大きな衝動だったのかもしれない。英語力を伸ばすことや、IT の仕事を海外で、という漠然とした目的より、それよりも更に曖昧な "遠くへ行きたい " という感覚がまさっての渡豪だったのかもしれない。

 

私と同じような "ここではないどこかへ行きたい " という思いでニュージーランドに数年前にワーキングホリデーに行った女性の人が書いた記事を note で見た。

その人は、WOOFF (家と食事を提供してもらう代わりに農家で仕事を手伝うプログラムのこと)にすぐに行っていた。森田療法には前々から興味があったので、それに近い感覚で WOOFF を体験すれば、私の精神的な問題に好影響を及ぼしてくれるだろうか。

つい先日に エーリッヒ・フロムの "自由からの逃走 " の本編を全て読み終えた。しかし、そういう「権威主義的性格」が私の中にありそうだという確信に近いものは感じても、何をどうすれば自分の性格は正常になるのか、そもそも正常に戻ることが可能なのか、という疑問は拭えない。"自由からの逃走 " は、勿論そういうハウツー本ではない。日本にいたときは、そういう自分の心理的な問題に行き詰まったときは、図書館で数珠繋ぎのようにその疑問に答えてくれそうな書籍を読み漁れば、問題の解決が進展していく実感を感じることができた。実際にその方法で私は、以前に抱えていた心理的な別の問題を克服することができたのだ。しかし、今はオーストラリアにいるので、日本語でそういう書籍を図書館で探すことが容易にはできない。

 

そういう中にあって、手探りで自分の抱える心理的問題を解決しようと思えば、WOOFF や森田療法、以前に試した マインドフルネス、シェアハウスの近くにあるヒンズー教寺院で週に2回催されている バガヴァット・ギーターのミートアップに参加しするなど、実践を通して心理的問題の解決にアプローチするほかないのかもしれない。

麻薬的なものと資本家と繁栄 その3

andymori に MONEY MONEY MONEY

という歌と、teen’s という歌がある。

今回は、この 2 曲に感じたことを書く。

 

MONEY MONEY MONEY

 

スピード上げて大きな音出して

凄んでみても満たされないのは

毎朝鏡に映る瞳が "HEY このクズ野郎" と

呟くからさ

 

- MONEY MONEY MONEY (andymori)

 

という歌詞。

 

"自由からの逃走 " で著者のフロムが言っているような、個人が社会に対して感じる無力感が

MONEY MONEY MONEYの歌詞で「このクズ野郎」というところに出ている気がしなくもない。

 

 

あと全然関係ないけど、

いろんなところで、例えば英語をスピーチで学ぶ的な広告とかで知られている、

スティーブ・ジョブズ氏のスタンフォード大学卒業式招待スピーチがある。

 

そのスピーチでジョブズ氏は死について語っており、以下のようなことを言っている。

 

「鏡の前で毎朝、『今日もし自分が死ぬとしたら今からやろうとしていることは本当に自分が望む事だろうか』と私は30年間、自分の心に問いかけ続けてきました」

ジョブズ氏は言っている。そしてこうも言っている。

 

「その問いかけに対して、数日間にわたって

"No. " という答えが続いたとき、自分の中で何かを変える必要があることが分かるのです」

 

つまり、ジョブズ氏が言っているのは、

"自由からの逃走 " でフロムも言っているように、

人の意志というのは、その人が本当に望んでいることよりも、他者の要請に答えようとしているだけの場合が殆どだということではないのか。

 

だから、ジョブズ氏は鏡の前で

"自分が本当に望んでいることは何なのか " と問い続けたのだと感じる。

そうすることでジョブズ氏は真に自分がやりたいことが明瞭になってきたのだと思う。

 

andymori のMONEY MONEY MONEY で歌われている、

「スピード上げて大きな音出して凄んでみても満たされない」人は、いつも他者からの要請に応えるばかりの日々を送っている。

 

つまり、いつも自分の本当の欲求を抑圧しているために、

鏡の前で「クズ野郎」

と、自分に対して無力感を感じているのではないだろうか。

 

 

teen's 

 

また、フロムは "自由からの逃走 " で、

個人の無力感は、孤独と不安を個人の中に増大するため、

個人はそれを抑圧し、

外的世界を破壊するか、

自分より強い国家や主導者、会社、資本家などの権威に自己を同化させようとする心理がある

という様なことを書いている。

 

 

teen's の歌詞で、

生まれていたサディズムに気づかないふりをした

人の傷を楽しむ自分を

押し殺した

 

- teen's (andymori)

というのがある。

これは、もろにフロムが書いている事だ。

 

つまり、

自然な欲求を抑圧することに慣れ、

それがゆえ無力な自分に気づいた人間は、

 

・他者を支配する事でそれを抑圧したり (=サディズム)、

 

・無力な自分を囲む外的世界を破壊したりする (例えば、テロリスト)

 

ということ。

 

teen's の他のところでも、

 

妬みや僻みなんかで

誰がビルに突っ込むだろう

 

- teen's (andymori)

 

と歌われている。

 

これは恐らくアメリカの9.11 の航空機ハイジャックで高層ビルに突っ込んだあの事件のことだろう。

 

テロリストは、妬みや僻みなんかではなく、

個人の無力感から来る絶望感や、

そこから来る権威への狂信的な執着・それがゆえの破壊欲が

テロ行為に走らせたのだろう、というような事を、

小山田さんは

「妬みや僻みなんかで誰がビルに突っ込むだろう」と表現しているのではないだろうか。

 

また、最初の方で歌っている、

思いは募るばかりだが

弱い僕さえ認められない

 

- teen's (andymori)

というのは、孤独を抱える「僕」が、サディズムや破滅の心を生む、無力な「弱い」自己を抑圧するということなのではないだろうか。

 

路上で歌うティーンエイジブルース

平和と愛が永遠のテーマ

小さな自分の醜さをそんな紙切れじゃ救えないぞ

 

- teen's (andymori)

 

teen's で歌われている、ティーンエイジブルースを路上で歌う「弱い僕」が「小さな自分の醜さ」を何かで誤魔化そうとしている。

 

MONEY MONEY MONEY の

「毎朝鏡に映る瞳が "HEY このクズ野郎" と呟く」人がこのティーンエイジブルースを路上で歌う人かどうかは分からないが、

「そんな紙切れ」とは、お金のお札ではないだろうか。路上でミュージシャンがギターケースを開けて路上に置き、チップのお金がそこに入っている。それを「そんな紙切れ」と言っているのかも知れない。

 

MONEYという単語からすると、お金というつながりで、MONEY MONEY MONEY の「毎朝鏡に映る瞳が "HEY このクズ野郎" と呟く」人は、teen's の路上でティーンエイジブルースを歌う人なのかも知れない。その人が「そんな紙切れ=お金」で自分の醜さを救おうとしている。

 

また、MONEY MONEY MONEY の「スピード上げて大きな音出して凄んでみても満たされない」人は、teen's の「何もかもが満たされない少年」なのかも知れない。

 

 

2nd アルバムの "ファンファーレと熱狂" に、ずっとグルーピー という歌がある。

そこでは禁欲的な生活を送る修道女が、小山田さんが自身のライブにおける心境に重ねて描かれている。

 

そこから、その修道女をカトリック信仰と結びつけて考えると、

teen's の

「自分の醜さをそんな紙切れじゃ救えない」でいうところの、

"自分の醜さを紙切れで『救う』" という表現に多少違和感があるのは、

「紙切れ」がカトリック信仰における "免罪符 " の意味もあるのかも知れない。

 

また、免罪符の象徴的モチーフとしてお金を置いたのは、

もしかしたら、アメリカのビルにテロで突っ込んだイラクへの報復攻撃を、アメリカの経済大国としての権力=お金の力で "Weapons of Mass destruction" の名の下に正当化した、ということも表現しているのかも知れない。

 

妬みや僻みなんかではなく、権威への服従・憧憬とその反動から来るサディズム・破壊欲がテロリストにビルに突っ込まさせたのにも関わらず、

そういうテロリストたちの心の傷や闇を救うことは、キリスト教国で隣人愛やアガペー・徳の大切さを説く国であるにも関わらず、そのアメリカにはできないということだ。

 

teen's で出てくる「路上で歌うティーンエイジブルース」が「平和と愛が永遠のテーマ」と歌っていることからも、上で述べたようなテーマを小山田さん自身を歌詞の中のシンガーと重ねて、愛とはどういうことなのか、と小山田さんはこの曲で問いたいのではないだろうか。

 

愛が全てと言えますか

綺麗なままの顔で死ねるなんて思いますか

 

- teen's (andymori)

 

 

また、

偽りの広告に縋るしかないのなら

僕は生きている意味の欠片さえも見出せない

 

- teen's (andymori)

 

というのも、権威に縋るしかない個人の脆弱さを表現しているように思える。

 

フロムの "自由からの逃走" でも、

もろに「広告でも "このシガレットを吸ってごらんなさい。きっと爽快な気分になりますよ" と扇動するような言葉が使われている」というような表現がある。権威の象徴的な例として広告をフロムも上げていたのだ。

 

そして、そのシガレット、つまりタバコも teen's に出てくる。

遠くに行っちゃったサッチャンは

髪の毛を染めました

タバコなどを覚えて

久しぶりって言いました

 

- teen's (andymori)

 

「サッチャン」として出てくるこの女性は、

無知にも、権威的なものに無意識に従属の心を抱き、遠くに行き、つまり欧米文化に染まってしまい、広告に踊らされてタバコや美容に腐心してしまっていることを、小山田さんはどこか諦念を以て描いているように感じる。

 

これは、フロムが言っていた、権威への「マゾヒズム的な服従」の例に当たるだろう。

そういう事実に気づかずに、半ば狂乱的にさえ見える、娯楽に身を興じている人々があまりに多いのは、私も哀しいことだと思う。

 

そういう無知な人々が描く偽りの広告、偽りの「幸せ」に踊らされる人の方が、この国の不幸であるという事実を小山田さんもこの teen's では歌っているのではないだろうか。

 

 

 

 

麻薬的なものと資本家と繁栄 その2

大衆が個を忘れ全体に同化していく過程をワーキングホリデーに見る

 

エーリッヒ・フロムの著作「自由からの逃走」において

近代の中産階級が、資本家などの権威に身を任せてしまい、自我を失う心理の社会的傾向を示していた。

 

自由であること、つまり中産階級においては、

経済や労働から解放された人間本来としての自由は、

孤独だということでもある。帰属意識がどこにもないと人は不安に駆られるものだから。

私は、4年以上も前に仕事を辞めた。その時に感じた恐怖感・不安・孤独はフロムのいう「自由」から涌き出てくる衝動なのだと思う。

 

今はワーキングホリデーにオーストラリアに渡っているが、語学学校に行っていないしアルバイトをしていない。その意味でオーストラリアでも自由でいることから生まれるそこはかとない孤独感の中に身を浸している状況だ。

 

しかも、日本という国の後ろ盾も半ば失っているようなものだ。日本にいる頼れる親もシニアになっていく。何かがあって親が死ねば、仕送りをしてもらうこともできない。お金が尽きれば日本にだって帰れなくなる。

そういう意味でも、母国への帰属意識も希薄な今、私にとってそういった孤独などの耐え難い苦痛から逃れるために、権威に絶え間ない憧憬を感じているのかも知れない。

 

いっそ、強者の一部になってしまいたい。つまりこんな苦しい個ならば、無力感に耐えるしかないのなら、その能力を、労働力を売る形でいいから社会の歯車になってしまった方が楽なのだ、という意志。

フロムの言葉で言えば、私はサド・マゾヒズム的性格なのかも知れない。

 

ギャンブル・高価なもの・金・酒 に何故だか心を惹かれるのは、自分の無力感を深くし、サド・マゾヒズム的性格を助長するものなのかも知れない。

 

筆者がこのブログ等で「麻薬的なもの」と称するもの、

つまり一般的には娯楽的なもの、性的なものなどからくる快楽に溺れそうになる人はそういう「麻薬的なもの」に溺れれば溺れるほど自分の無力感は増していき、より強く権威的なものに自己を同化させたくなる傾向があると、フロムも言っている。

 

権威主義的性格

サド・マゾヒズム的性格の他に、

強者が強者である内はそれに服従している限り、自己の精神を安定させられるが、

強者が弱体化した時には自分を守るものがいなくなるために、

強者に対して攻撃的になるタイプの人を、フロムは権威主義的性格と表現した。

 

私はこれにも当てはまるような気がしている。

日本にいて、仕事をしていない時に自分の能力を発揮する場もなく街をふらふらしていると、

社会や周囲の人々に対して無性にイライラしたり攻撃的になった体験がある。

 

例を挙げれば、某ショッピングモールで私は買い物に来たわけではなく先を急いでいるのに、

消費者に購買意欲を湧かせるために、わざと店内の通路を歪曲していろんな店を見せる様式に対してイライラして、最短経路上にあるスタンドやプラントに肩が触れても、あわやそれを吹っ飛ばずくらいには全速力で前進したことがある。

 

このような資本家の商業的な思惑にむかつくことも何度も私にはある。

GoogleChrome の操作性の悪さには、時間を奪われることに悪態をついたりする。

Google の社長 (CEO だけど)は人の時間を搾取してお金を儲けているのだ、と憤慨したりする。 YouTube の広告などもっとだ。人々から創作や能動的に使える時間を奪っている。

そういうことに無性に腹が立つ自分がいた。

 

これは権威主義的な性格がゆえだろう。心の奥では非常に憧憬を抱いている大きな権威ほど、それの否定的側面に対しては、激しく嫌悪を感じるということをフロムは "自由からの逃走" で書いている。

 

そういう性格特性が私にはある。

 

 

続く

 

麻薬的なものと資本家と繁栄 その1

麻薬的なものへの情景

私は、オーストラリアにワーキングホリデーにきている。アルバイトを探しつつも、アポ無しで面接交渉に行かなければならない事態を前にして、何故ここまでして働くのか理解が追いつかなくなってきた。

 

なのに、最新のiPhone・カジノ・酒… そんなものを欲している。陶酔できる何か。それを渇望している自分もいる。

 

生活のためにお金が必要と考えてみても、日本という国に生まれたから、生活保護というものが頭をチラつく。単に生活のためなら、日本に帰って生活保護を受ければ生きていける。

 

つまり、「どのような」生活を求めているのか、によって、「どう働きたいか」が決まる。

 

陶酔できる何か、例えば酒やギャンブル…ならばアルバイトでは足りない。正社員でも足りないかもしれない。

新しくiPhoneを毎年買い替えたい、というのならアルバイトや正社員でも叶えられそうだ。

 

しかし、そうしたいからと言って、そのために働きたいかというと、そうでもない。

 

 

常に進歩する意志

ワンステップだけ現状を超えていくことで、新しい上のステージにあがれる。それを繰り返して資本家は自分たちと国を豊かにする。

 

個人は上昇気流を作るかその風に乗るかの選択をする

資本家は経済や国・世界のより一層の繁栄のため、結果的に 国・世界全体を上へ上へ、押し上げようとする。そうしてビジネスを興している。

 

労働者は資本家が用意したその社会全体の機運、例えて言うなら上昇気流に乗る。

 

分かりやすい例で言えば、テクノロジーの進化は全てその原則に則っている。

 

一昔前ではiPhonemac。次の世代は Apple Vision Pro か何かのもの。もう何年も流行を追っていないので、今なにが最新のものとしてもてはやされているか知らないが。

 

 

かつての戦争兵器のためのテクノロジーも含めてそうだ。他国から領土を奪って自分のものにする。土地の所有者はその土地を貸したり売ったり増やしたりして商売をする。

 

そういう資本家がどんどん国全体を押し上げていく。

 

その機運に飲まれた大衆は個を忘れて、全体の歯車になっていく。より住みよい街、甘美なリゾート、便利な道具、満たされない所有欲に飲まれていく。

実際にそれらを所有しているのは資本家で、所有している気分にさせられているだけだ。 (綺麗なアパート、格好いい車、グランピング…)

 

 

何を求めて働くのか

ワーキングホリデーという状況で、何を求めて働くのか。

 

とりあえずスマホを買い替えたい。でもそれだけのために頑張るには仕事や求職活動はしんどいものに感じられる。

 

英語でシェアメイトや人と話すことを働く目標にすればいいのではないか

こうなったら生活じたいを楽しみの対象に据えるしかないのではないか。

人と一緒に過ごす時間を大切にする。人と会話することを楽しむ。

 

内向的な性格

こんな記事を書いている時点でバレると思うが、筆者は極度に内向的だ。

 

人と会話するのは得意ではない。全く見当違いな会話になるわけではないが、話していても楽しいと思わない。

 

そんなことより、自分の心理や人が何を考えているのかが知りたい。その人は何に価値をおいていて、どういう思考で今生きているのか。

 

雑談がうまい人とくだらない話をしていても、話の空虚さが故に、自分が今話している相手が何も考えていないような気がして、おもしろくない。

 

人の上に立つということ=愛嬌=コミュニケーション能力

雑談というのは相手の心を開き、それが結局お互いに気持ちのいい環境を作り出すから、自分に運も向いてくるし、周りからいろんなことを吸収して自分のものになっていく。

だから雑談力というのはそういう点では必要な力なのだろう。

 

性格は大人になってから変えられるのか

外交的な性格に関しては、年齢とともに逆に下がっていくらしい。2003年から20年後の今でも、Google 検索ではそういう研究結果がトップヒットに来る。

https://www.apa.org/monitor/julaug03/personality#:~:text=While%20many%20may%20suspect%20that,personalities%20evolve%20throughout%20their%20lives.

 

それでも人の上に立つ仕事がしたいんだ、という心意気でもない限り、この壁を越えようとすることは難しいかも知れない。

 

まあ、私の場合はフロムが "自由からの逃走" で言っていたように、

権威主義的性格が見られるので、

そういう意味では「人の上に立つ」という言い方もできるが、

それは何か違うニュアンスのような気がする。

 

語学力さえあればシェアメイトとの生活を楽しめるのか

現在のシェアメイトとも多くて一日に二言三言しか話していない。

すでに出会ってから 1週間は経っている。

 

英会話スキルが低いから、単純な話ができないがゆえに、この頻度でしか人としゃべれないというのもある。

 

仮に英語を話す力がもう少しあっても、今より話したくなるのか、分からない。それを信じてやってみればいいのかもしれない。

 

語学力を伸ばすために、シェアメイトと話す。そのために仕事をする。こういうことも考えれる。でも、語学力が頭打ちでは現状のまま1日に二言三言のイージーな浅い会話レベルから脱せられない。

 

続く

 

ワーホリでの 1つの賭け

ワーホリで自分の内面を見つめることが増えている。

 

その為に、語学学校に行けなくなってきた。悪くはないが。選択肢はたくさんある。

 

賭けというのは、語学学校に行かなくても英会話を習得できるか、という実験。

賭けとは大げさかもしれないが、人生のうち 2年を使うのだから、大げさでもないだろう。短大に通うくらいの年月だ。

 

 

不登校

語学学校に通っている途中、 2週間 通った時点で分かったことがある。

それは、内向的な性格の者は、社交的な者のように他国の留学生と友達になって話すことで英語のスピーキング力を伸ばすことはできないことだ。

 

余程語学を習得する目的がある場合や、必要に駆られている場合でもない限り、難しい。

私の場合は、英語を話せるようになるためにワーキングホリデーを利用して語学学校に通っているわけだが、英語習得のモチベーションとなる目的が特にない。だから、自分の内向的な性格を乗り越えてまで、英語を習得しようという意欲が湧かないのだ。

 

対して、進学したり、現地オーストラリア人経営、あるいは日本人以外経営のカフェやレストラン、ホテルで働きたい、という目的がある人は、例え内向的な性格でも、語学学校で他国の人と友人になって英会話力を高めることができると思う。

 

目的や差し迫った英語習得の必要性がない時点で、内向的な私が語学学校に通っても大して意味がない気がするのだ。他国の留学生と仲良くなって... なんてしんどくてできない。

 

 

そしてこれは、不登校のプロセスをたどっているのかもしれない。大人になってから、いかに自分の半生が矛盾と抑圧に満ちていたかを知った後、学校というものは語学学校といえど、そのホストの価値観が万人に合うものではないようだということが分かる。

 

特に日本では、大学進学→就社というレールを走れないタイプの人は自殺するか犯罪を犯すか生活保護を受ける羽目になる。運のいい人は国が敷いたレールから外れても生きていく方法を見つける。だから不登校を気にする必要はない。

 

 

生活のためのアルバイトも簡単ではない

また、アポ無しで飛び込みでレジメ (履歴書)を渡しに行くつもりだ。

Eメールを送って、レジメをよく見られて「こいつは飲食勤務の経験が乏しい」で不採用のレッテルを貼られ続けて、どうしようもないと感じたらそうせざるを得ないからだ。どこか運よく緩い採用の店があれば別だが。

 

 

飲食店勤務経験が少ない私にとって、飲食店狙いならこの方法でいくしかない。説得力のある自己アピールをして、熱意や勢いで採用を勝ちとるしかない気がしている。

 

 

もし、それでも飲食店がダメなら、ファームででも働かざるを得ない。

 

 

友人たち

心の友

そして、本当に心の底からそはにいられる友人がほしい。こっちに来て友人と呼べる人がいない時は、とにかく尻尾を巻いて逃げたい感情になった。友人と呼べる人はいるにはいる。が、やはり「信じていいかい」という気分は残ってしまう。80% は一緒にいて居心地の悪さはないので彼を信じよう。

 

しかし、残りの 20%は、相手に理解されないのではと思う部分が自分にあったときで、戸惑う。

 

多分、拒絶感を感じたくないからだ。これには言語的な障壁が影響してもいる。

英語で頑張って相手に伝えようとしたら、理解 (愛)の深い友人なので何とか分かってくれたようだった。

 

案外オーストラリアのあたらしい文化に染まって、自分の主張をオープンにした方が語学習得にもプラスに働くかもしれない。

 

同志・兄弟たち

本当に自分と似たような思いで、日常レベルで生きづらさを感じている人とも出会った。

共感できる感性が多すぎて (でも同情でも変な仲間意識でもなく一体感に近い)、もう一人の自分を大切にするような、そんな存在。

 

でも会えないのかもしれない。会いたい。

 

その絆はなぜか、愛のないオーストラリア英語教師によって引き裂かれた。大げさだが。彼は発した言葉こそ違えど、その実「内向的な者の居場所は語学学校にはない、国に帰れ」と言っているようなものだったからだ。

 

友人との関係を別々にされたというより、

同じ人格否定を 2人分も被った感じ。私から友人への二次被害。痛みが2倍になった。1つの痛みでもこんなに辛いことなのに。辛いことは一人分で十分。

 

でも、私とその友人は恐らく同じ傷をその教師の為に負ったまま。私達がどちらかが傷つけば、呼応してもう一人も傷つく。

 

 

どちらも回復不能なダメージを負った場合は可能性は 0だ。二度と語学学校に行かなければ、彼女に会うこともない。

 

 

時間が解決してくれるのだろうか。